ホジュン~伝説の心医~

History

ホ・ジュンという人物

歴史上の記録

低い身分から王を診る御医となり、出世の道を極めたホ・ジュン。ドラマではその苦難の道のりが描かれるが、これは大部分がフィクションだ。1539年(1546年説もあり)に武官の父と両班の庶子の母の間に生まれたジュンが、記録に最初に登場するのは1569年のこと。王・宣祖に重用されていた儒者の顔の腫れ物を治したというのがその記述だ。そして、1574年に内医院に入ったとされている。以後は、王族に関連しての記録が散見される。1587年にヤン・イェスらとともに、王の病気の快復に貢献して鹿皮(虎皮とも)を賜ったとの記録が出てくる。1590年には恭嬪の第2王子・光海君の天然痘の治療にあたり、重病の王子の命を救ったことで、正三品の位に昇進。1592年には従一品の地位にまで上った。後に王は最高位の正一品を授けようとしたが、重臣の反対に遭い断念している。それでも1608年3月に宣祖が逝去すると、その死の責任を問われて流罪となる。その地で中断していた『東医宝鑑』の編纂にあたった。翌年11月赦免され内医院に戻ると、1610年に完成させた『東医宝鑑』を光海君に献呈。その後、1615年に生涯を閉じる。死後、正一品の位階が与えられた。

ホ・ジュンの生きた時代

王室の状況

ホ・ジュンが生きた16世紀半ばから17世紀初頭。朝鮮王朝は第14代王・宣祖の世だった。党派対立が続く不安定な政情の中で、豊臣秀吉による朝鮮出兵を受けた。1592年の壬辰倭乱(文禄の役)の際には宣祖が都を捨て平壌、果ては義州まで逃げ落ちるはめになる。この時、王宮だった景福宮や昌慶宮、昌徳宮も焼失。乱は将軍・李舜臣率いる水軍や明からの援軍に助けられ1年後に休戦を迎えるが、混乱した社会を建て直す間もなく、1597年に丁酉再乱(慶長の役)が起きる。秀吉の死によって日本が撤退し、1598年には戦争は終結するものの2度にわたって戦火にさらされたために国土は疲弊。さらに、ドラマの中でも描かれているように、正室である王妃に子供が生まれず、王室では後継者問題が浮上していた。そんな中で、次の王となる世子を光海君とした宣祖は復興に力を注ぎ、自らも節約して贅沢を戒め、農地を開墾し収穫の安定、民間経済の再建に努めた。医学の発展にも深い関心を寄せていた宣祖が『東医宝鑑』の編纂を命じたのは1596年のこと。ホ・ジュンやヤン・イェスら数人の医官が作業を始めたが、丁酉再乱で中断していたのを、その後ホ・ジュンが単独で完成させた。

Top